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開館時間  10:00〜17:00  休 館 日  火曜日  入 館 料  大人 500円  子供 無 料

電   話 0977-85-7542  大分県由布市湯布院町川北平原1358 (ナビ検索は「由布院​文学の森」で)

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竹と遊ぶ・竹と暮らす

          

                         

            

 

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       [竹伐りの翁となる一日]

2018年5月、再開された「由布院空想の森美術館」の立つ敷地の前面に、竹林が広がっている。その向こうに由布岳の山頂が見える。竹林が由布岳の裾野と由布院盆地を隠す目隠しとなっているわけだ。それゆえ、この竹林は、遠からず伐採される予定である。ちょっと惜しい気もするが、それは私たちがこの地に来る前からの方針であるから、止むを得ない。
真竹の林である。この季節は、タケノコが賑やかに出る。真竹は、縄文時代には籠の素材として使われていた日本列島の基層植物のひとつである。当然、食用としても利用されていたことだろう。真竹のタケノコは美味しい。滋養強壮等の薬効もあるらしい。十年以上前のことだが、九州脊梁山地・米良の村を訪ねた折、村はずれの竹林で数頭の鹿がタケノコの周りをぐるぐる回りながら、東北地方の「鹿踊り」のように頭を下げたり、空を向いてふうん、と息を吐いたり、ぴょんと跳ねたりして遊んでいる光景を目撃したことがある。彼らはタケノコを一口食べては跳ね、ぐるりと回ってまた一口食べして、遊んでいたのだ。それは神聖な儀式のような舞踏であった。つまり、鹿たちにとってタケノコはそれほど旨い食べ物なのだ。

 


私も真竹のタケノコを採りに竹林に入る。腰に鉈を差している。邪魔な木やひねくれた小竹などを切り払い、林間の道を拓くためだ。竹林の中には、はないかだ(花筏)が青く丸い実をつけており、ほととぎすの群落、栗やコナラの幼木、楮の若木、タラの木やウドなどの山菜もある。日光が足りずにひょろひょろと頼りなく茎を伸ばしているが、これらの植物は、この土地にもとからあった植生だ。開発が進み、徐々に分布範囲を狭められて、今はこの竹林の中でひっそりと命をつないでいる。
私は、一本竹を切っては休み、次の一本を切り倒してはまた足元を眺めて、これらの植物たちを移植する手順を考える。この梅雨の間に数種を運び、秋までには移植を終えて、空想の森の庭をこれらの草木の繁る森に仕上げたいものだ。竹は、9月になったら切り始めて、オブジェを作る。三角錐の縄文式住居のような櫓や大きな編み目の球体などを作ろう。
私の切り進む竹林の中からはかぐや姫や黄金を秘めた竹筒などは現れないが、現代のアルティザンたちと工夫を凝らせば、意表をつく作品が生まれてくるような気がする。それもまた空想の森という冒険の森での産物となることだろう。

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      [竹という空洞、その神秘空間]

竹という植物は、その内部が空洞になっており、一定の間隔で節がある。その節と節の間の空洞は、入り口も出口もない。が、真空だとは思われない。なんとなれば、その中で「かぐや姫」が育ち、竹取の翁によってこの世に迎えられるのであるから。その不思議空間はおとぎ話の世界の出来事であるが、全くの虚構とはいえない。竹が空洞であるということは、現代においては子供でも知っている常識の範囲内のことであるが、その空洞を有するがゆえに、そしてその驚くべき成長の速さ、120年周期で開花と枯死を繰り返しながら再びよみがえる生命力、地中にがっしりと張り巡らされる根の力などにより、古代の人々は、竹には精霊が宿り、竹とは呪力をもつ植物だと認識した。かぐや姫は、竹の精霊としてこの世に出現したのである。
神楽の「岩戸開き」では、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が手にササバを持ち、神がかりして舞い、岩戸に籠った天照大神(アマテラスオオミカミ)を招き出す。このササバとは「笹葉」または「榊葉」である。高千穂神楽では
―― 青白の にぎての枝を折りかざし、舞えばぞ開く 天の岩屋戸
と神楽歌が歌われ、アメノウズメノミコトが呪術的な舞を舞う。青と白のにぎて(=和幣)とは、青和幣(麻の繊維)、白和幣(楮の繊維)のことで、笹の葉または榊葉に麻と楮の繊維を取り付けたもの(すなわち御幣の原型)を振りかざしながら舞うのである。「笹の葉=竹」は、神を招き、神が宿る呪具であった。
 記紀神話の海幸・山幸の段では、兄の釣り針を亡くし、途方にくれる山幸彦の前に塩土老翁(シオツチノオジ)が現れ、山幸彦からその嘆きのわけを聞くと、手にした「玄櫛(くろくし)」を地に投げて竹原を出現させ、その竹で「無目籠(まなしかたま)」の小舟を作り、その船に乗って竜宮へ行くように指示した。「くろくし」とは漆を塗った竹製の櫛で縄文時代の遺跡からの出土例がある。「まなしかたま」とは、竹で編んだ網目の詰まった籠。これも古代の舟である。いずれも「呪力を持つ竹」による細工物であり、大和王権樹立以前に、日本列島の南端・薩摩・大隅半島一帯には、このような「竹」にまつわる先住民の技術・習俗があったということである。
九州脊梁山地・米良山系の神楽や高千穂神楽では、「御神屋(みこうや)」という舞庭の中央に「天蓋(てんがい)」が吊り下げられる。天蓋とは「天(あま)」「雲(くも)」などと呼ばれ、宇宙星宿を象形し、同時に母の胎内をも表すという。すなわち神楽は、広大無辺の宇宙空間であり母の胎内でもある安息空間の下で、終夜、舞い継がれるのである。この天蓋も竹で組み立てられている。
「しおつち」とは潮の霊であり、海流を支配する海神を表し、「かぐや姫型」の民話は、東南アジア一帯に分布する黒潮文化圏の習俗を原型とし、その分布域は、竹の自生地帯とほぼ一致するという。日本列島の「竹細工」の歴史は黒潮打ち寄せる南九州先住民族の手によって受け継がれてきたものである。南九州の先住民族とは「隼人」であり、大和王権に服属した隼人は、畿内に移住させられ、宮廷の守護や竹細工をその職とした。日本の「竹工芸」の原郷は南九州であった。

 


 私は、この5月に17年ぶりに再開された由布院空想の森美術館の二階企画室に住み込み、館の仕事をし、来客の相手をし、その合間にインターネット原稿を書いたり、時には竹林に入り込んで竹伐りをしたり、野花を摘んできて室内に生けたりして過ごしている。スケッチの小品を仕上げる日もある。いつの間にか、企画室は私のアトリエ兼画廊のような機能も持ちはじめている。
 窓の外に由布岳の山頂が見えるこの贅沢な室内空間の真ん中に、不規則な編み目状の竹製の照明器具が下がっている。その球体は、由布岳を染めて昇ってくる朝日と同じ色で壁面を染め、午後にはその陽光が差し込む室内に遠慮がちな斜光を送り、夕映えの空の色を取り込んで、神楽の御神屋中央に下げられる「天蓋」のようなあざやかな輝きを放つ。
 夜、私は本を読みながら眠ることが多いのだが、深夜、ふと目覚めると、宇宙空間を漂う飛行物体さながらに、あるいは昔語りの本の中の不思議な旅行者のように、たゆたい、ゆらめき、夢中の幻覚の中へ、そして再び訪れる深い眠りへと誘うのである。
 「みだれ網照明器具」という。旧友の竹工芸家、故・野々下一幸の作である。

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                           「空(くう)」の時間、「無」の空間

 老子はいう。 「土を捏ねて器をつくる。その内部の「無」の空間に、「うつわ」の有用性があるのである」 なるほど。 二千年以上も前の哲学者は、真理を言い当てて玄妙である。 野々下一幸の「竹の灯り」を見ながら、私はそんなことを思う。 「由布院空想の森美術館」の企画室を兼ねた私の居室の、天井に下げられた竹の照明器具は、竹を荒く削り、一見、無作為に見える編み方で、球体を編み上げて作られている。内部は空洞で、一個の電球が吊るされ、その電球から、四方に明りが放たれるのだが、光は、編み目と編み目の間を透過して、不規則に空間に放射され、さらに不規則な陰影を壁や床や室内空間そのものに描き出す。一般的な電気器具の概念からいちじるしく逸脱しているが、そのことによって、「灯り」としての機能と魅力が増幅するという魅力ももつのである。「みだれ編み」という竹芸の技法は、「現代美術」を凌駕する完璧なる抽象芸術であり、東洋の神秘を具現する生活用具というべきであろう。
 

野々下一幸氏が湯布院に現れたのは、1970年代後半のことであった。そのころ、私は湯布院の町の病院で長い療養生活(白ろう病=振動障害という職業病。削岩機と呼ばれる石材掘削機械を使い続けたことによる機能障害)を送った後、この町の老舗旅館に職を得、九州の「ものづくり」の作家たちの作品を集めた展示・販売施設の立ち上げと運営を担当していた。今でいう「物産館」である。まだ湯布院の町に土産品店など一軒もないころのことである。その店へ、野々下氏は、片手に杖を突き、大きな風呂敷包みを背負い、1時間かかる距離を列車に乗ってやってきた。私は即決で全品買い取りを決済し、そのがっしりとした竹の作品群は、以後、この物産館の主力商品となった。湯布院の町が「町づくり」という概念を掲げた運動を展開し始めたころのことで、工芸家、染色家、画家、音楽家などが集まる「文化の町・アートの町」としての祖形が生まれ始めたころのことである。
やがて、野々下氏も湯布院に移住してきて、「町づくり」の仲間となった。工房の一角にタンノイのスピーカーを据え、クラシック音楽を聞きながら、太い手で竹を割り、削り、編み上げてゆく彼の姿は、古武士の風格と文人の気風とが混合し、風流とも婆沙羅ともいえる風姿であった。彼の周りには人が集まり、私もその仲間の一人として親密に付き合った。酒を酌み交わし、「ものづくり」のこと、町のデザイン論議、音楽のこと、美術のこと、文学のことなどを語り合った日々が懐かしい。
仕事の区切りがつくころを見計らってヤマメ釣りにも誘った。彼は、杖を左手に、竿を右手に持ち、自在に谷を歩いた。大岩の続く険しい谷では蜘蛛のように這い、黒光りする山猫のように藪を漕ぎ、上流を目指した。少年のころ、梯子から落ちて脊髄を損傷し、以後、下半身が不自由な身体となったというのだが、彼の身体も精神も、健康で、健全そのものであった。
「ゆふいん音楽祭」の立ち上げにも参加した。私たちは、主に裏方として運営を支え、「この山間の小さな町で、良い音楽を聴くために実行する音楽祭」という基本理念を確認し合い、その骨格に沿って活動した。杖を片手に椅子や譜面台などを運ぶ彼の姿が、若い実行委員や音楽家たちに感銘を与え、音楽祭そのものの性格を形成していった。初期のゆふいん音楽祭は、西洋音楽に造詣の深い加藤昌邦実行委員長と野々下一幸の存在によって育てられたと言っても過言ではない。
 このころ、21歳になっていた私の弟・八州洋(やすひろ)が、野々下に弟子入りした。弟は、中学を卒業してすぐに外国航路のコックとなり、世界の海を旅したのだが、その仕事は彼には合わず、陸(おか)に上がった時、身に付いていたのは賭博の習慣だけだった。もともと、祖父が一代の蕩尽で莫大な資産を失ったという家系であるから、彼の血は、正しくその系譜を受け継いだのである。だが、20歳の時には身体を壊して、私のもとへ転がり込んできていた。そして、野々下の工房へ出入りするうちに、その人格や仕事ぶりに惚れ込み、
 ――この仕事に賭けてみよう。
と決断したのである。無頼の生活から、地味な修行期間を要する職人の世界へ。大いなる人生の賭けは、彼を釣りや読書や茶や野花を愛でる、文人の境へと導いたのである。湯布院の町が、高度な文人趣味に基づいたもてなしの文化によって人気を獲得してゆく過程とも重複していた。
この後、私は「由布院空想の森美術館」を開館して怒涛のごとき15年間を過ごし、経営破綻した美術館を閉じて宮崎へと移住した。野々下の作品は、美術評論家で画廊主の故・州之内徹氏が「岩のような竹籠」と評して美術月刊誌・芸術新潮の「気まぐれ美術館」に取り上げたり、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されたりして評価が確立したが、本人は体調の低下に気付いており、
「竹の仕事ができなくなった時が、俺の人生の終わりだよ」
と言っていた。そしてその言葉のとおり、2004年6月21日、彼は自決した。享年58歳。
 私が宮崎へ移転し、少し生活が落ち着いた頃のことである。野々下が苦労しているらしい、という風の噂を聞き、
 ――宮崎へ来ないか、こちらは気候も良いし、南の人たちは温かでおおらかだし、ヤマメ釣りの渓もある。野菜も魚も美味い。敷地の中に竹林もある。
と書きかけていたちょうどその時に、訃報が届いたのである。そしてこの原稿を書いている今が2018年6月21日という不思議、さらには、17年ぶりに再開した由布院空想の森美術館の自室に、彼の作品が点々と持ち主を変え、旅を続けたのちにやって来て、私はその「灯り」に照らされながら過ごす日々を得ることになったという附合。
 ここから先は胸がつまって書けない。詳細はいつか語る時があるだろう。今回は略し、福岡市エルガーラホールギャラリーで開催された野々下一幸追悼展に寄せた八州洋の文を転載しておこう。この遺作展は、彼の旧友・仲間たちによって企画され、八州洋も弟子として最後の奉公をしたのである。

*以下の文と写真は竹声館ホームページより転載

 やすひろより、のんちゃんへ。
 
 高見八州洋

 「やすひろ君、今日はいい天気やね」             
 こうきり出してきたときは
 「釣り日和ですね」
そう答えると話はすぐに纏まって、急ぎの仕事も放り出して山女魚釣りに行った事をよく思い出します。そうして時間が足りなくなると周りの人には、
 「俺たちは忙しいんじゃ」
 そう言いながら二人して徹夜して籠仕上げたこと、ありましたね。

 のんちゃん三十二歳、僕二十一歳。最初の言葉は
 「俺を先生と呼ぶな」
でしたね。僕はなんて呼んでいいか分からず、おいさんとかのんちゃんとかいろいろ呼んだけど今日はのんちゃんと呼ばせてもらいます。
 あの頃は元気一杯で自転車や車椅子で二人乗りをしてよく遊びました。でもある日突然
 「竹細工は体が基本だ車椅子は体が弱る」
そういってやめましたね。

 先日階段から落ちて肩を痛めたから杖もつけなくなったと電話があった時、杖がつけんなら車椅子じゃあないですかと喉まで出かかったけど言えませんでした。何日かして一杯やろうと誘われて飲んだ時、
 「俺は今鋸の本を読んでいる」
と熱く語ったけど、僕はその時酔っていて内容は覚えていません。でも道具のことにかけてはのんちゃんが一番やね、と僕たち二人の師、宮崎さんと飲むとき何時も話していました。
 切り出し小刀、竹切鋸、銅つき鋸、竹の皮を削る時の銑、台を漆で固めた砥石、でも僕は使い古しの切り出し小刀が、油をひかれた紙に巻いて保存しているのを見たとき、流石だな、そう思いました。
 いつか作った墨壷。あの器用さは羨ましかったです。だから少し前、墨壷の本を手に要れたときこれを見せなきゃ。そう思っていたのに・・・・・・。

 今は、賭けと人生という本を読んでいてその中に芸術の夢と賭博の幻にとり憑かれた男の話が出てきて面白かったのでこの話しをしようと思っていたのですけれど。                                   
 最後に会ったとき、初めての山女魚釣りで大漁だった九重町の鳴子川に、久しぶりに出掛けませんかと誘ったけれど
「海に行きてえなあ」 
との返事で、話は纏まりませんでしたね。
 もう、一緒に釣りは出来なくなりました。のんちゃんは彼岸で釣ってください。僕は此岸で釣ります。  
 旅立つ前に釣り道具は渡したけれど、また何処かで飲みすぎて失くさないでください。もう、渡すことは出来ないのだから。

 ああそれから、僕への最後のメッセージが、「俺の灰、さじ一パイを川に」ということだからそれはやっぱり鳴子川にします。 
 二十六年間有り難うございました。口に出しては言えなかったけれど今の僕が有るのはのんちゃんのお陰だと思っています。
 それにしても、近頃いい天気なんだけどな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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    [竹のオブジェが古民家の外壁を装飾した]

朝一番に、軒下まで巻き上げてある布の看板を下ろす。
由布岳が、朝焼けに染まったり、朝霧を纏ったりして、日々さまざまに変化する姿を見せてくれる。夕刻、暮れてゆく由布院盆地を眺める。竹のオブジェを透過した灯りが、古民家の外壁を装飾する。

再開・由布院空想の森美術館の建物は、大分市郊外(臼杵市との境付近にあたる)にあった解体寸前の民家を移築した重厚な古民家である。今まさに、重機の爪が建物の骨格に向かって打ち下ろされようとした時、
「待った!!」
をかけ、移築したものだが、神社の神職関係の人が住んだらしいこの建物は、重厚なだけに「展示」は難しい。私どもの「美術館」として最も使いやすい建物は「倉庫」のようながらんどうの空間なのだが、重厚かつ風雅な建築物は、それに適う配置や「もの」の選択が要求され、高度な技術を必要とするのである。
内部空間の展示は、「九州の民俗仮面」を核として、私たち三兄弟(乾司・絵画、剛・写真、八州洋・竹工芸)の作品で構成したので、まずは想定内に収まった。開館前の三日間で仕上げるという難局を打開したのは、ゲストコーディネーターとして参加してくれた高倉和也君の水際立った手腕であった。彼は初期の空想の森美術館の設立に参加した高倉幸夫君(故人)の甥にあたる好青年である。早世した幸夫君が配置してくれたかのような(このような現象を天の配材と呼ぶ)、和也君の活躍であった。
以後、内部の展示は少しずつ厚みを加えながら進行していったが、外部のコーディネートが遅れていた。そこへ、八州洋作・竹のオブジェが届き、昨日、布の看板が上がったことで、一気に仕事が進んだ。
高見八州洋作のオブジェは、由布院駅アートホールでの個展に出品されたことのある彼の代表作である。「みだれ編み」という技法を駆使した高さ3m×横4mのダイナミックな構成。この技法は、彼の師匠である野之下一幸の仕事「竹の灯り」(「空(くう)」の時間、「無」の空間で紹介)を継承したものである。竹ひごを、意図する寸法に削り、自在に編み上げてゆく技法を習得するまでに20年という年月を要した。その後、独自のデザインを加えて完成したのがこの作品なのだが、この6月に彼の新しい工房兼自宅が完成し、収蔵スペースが確保できなくて、こちらへ回されてきたのである。
軽トラックで運ばれてきたこのオブジェは、違和感なくその場所に収まったばかりか、重量感のある古民家の外壁に彩りを与え由布岳のそびえる空へと続く、広々とした空間と民家を一体化させる役割も果たした。
玄関回りの展示が、完成の域に達した日であった。

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[竹のオブジェ「風のゆくえ」のこと]

2006年、高見八州洋は、駅の待合室を美術館として運営する「由布院液アートホール」で個展を開催した。竹工芸の道に進み、厳しい修行期間を含めたおよそ30年の年月を経過して、初めて実現した大規模な個展であった。その時に展示された作品(今回、再開:由布院空想の森美術館の壁面を飾ることになったオブジェ)を見た建築家から、発注がきた。湯布院に開業予定のホテルのロビーを飾る6メートルの大作である。その経緯を記した本人の文があるので、転載しよう。
*JCDA日本クラフトデザイン協会の会報「Newsletter」2007年6月号より。

「風のゆくえ」

2006年、知人に紹介された建築家の方から、ホテルロビーの照明を一つ作って欲しいと電話があり、詳しい内容は聞かず軽く引き受けました。翌年になり、打ち合わせのため持って来た設計図を見ると、2m40㎝が二つ、1m20㎝が一つで全長6mの仕事だというから、さて、大慌てです。5mの竹を注文し、補強のための鉄も頼まなければなりません。金具やその他諸々。竹置場にコンパネを敷き、大きさに対応するための即席の作業場も作りました。

ヒタヒタトノウキガセマッテクル
ユメミガワルイゾ
ハヤクシアゲロ!
ハタラケハタラケ
ハラノナカムシントナッテハタラケ

振り返れば、追い込まれた気分ばかりの日記です。
紆余曲折の果て、取り付けの日は何かに祈らずにはいられません。
上手くいきますように。
現場では、玄関を壊して待っているのです。
一発勝負です。
オープニングは二日後です。
手直しさえ出来ません。
あゝ。

作品名は「風のゆくえ」としました。由布院を舞台にして風のタイトルをつけたテレビドラマが放映されたり、風色の由布院、由布院に吹く風などの言葉が聞かれ、いろいろな風が吹いているようですが、老舗旅館の売店からクラフト作品が少しずつ消えていく現状もあり、淋しい限りです。
クラフトに新しい風が吹きますように。

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