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第一期由布院空想の森美術館の15年と

由布院アート1970年代~90年代のこと
[町づくりと美術館]

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2018年5月、16年の空白期を経て再開した「第二期由布院空想の森美術館」を機会として、初期の由布院アートと「第一期由布院空想の森美術館」のことを知りたい、というリクエストが、これまでに数多く寄せられています。そこで、高見乾司が、1970年代から始まった由布院アートのことを掘り起こしながら、書き進んでゆくこととしました。年代の古い順からページ下の方に掲載しますので、<一>から読み進むと流れがわかる構成となります。なお、このページは(何かにつけて湯布院のことを振り返るのは潔くないのではないか・・・)という思いから、なかなか筆が進まずにいましたが、下記三篇に記したように、2011年「平成の桃源郷/西米良村おがわ作小屋村エコミュージアム」の事業の一環として開催された「九州アートネットワーク車座会議」を機縁として「美術館と街づくり」が掘り起こされました。それが、はからずも「尾崎正教とわくたし美術館」の項を受ける形となったのです。由布院空想の森美術館の閉館・尾崎正教氏の死去などから10年を経て、アートが地域再生の重要な手法として認知され、定着したという感慨があります。今後の展開も含め、順不同で記録してゆくこととしましょう。

*なお、本文の多くは「帰る旅―空想の森へ」(花乱社/2018)に収録されています。

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由布院駅とゆふいんの森号.jpg
99ページ島原アート.jpg
島原2子供たちと壁に絵を描く.jpg
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          [美術館と町づくり] 

               丹青社「ミュージアムデータ」より

2011年10月、東京・京橋の画廊・アートスペース繭での企画展「南の島の古陶と精霊神」を行なったが、その期間中、日本橋人形町のウィークリーマンションに滞在して、アートと骨董などに関する原稿を書いた。その折、故・洲之内徹氏と「気まぐれ美術館」関連のことをインターネットで検索していたら、突然、画面に「美術館と町づくり」というタイトルが現れた。それは、私が11年前に書い記事で、初期の「湯布院の町づくり」のこと、「由布院空想の森美術館」を運営しながら各地を巡り、「アートと地域計画」について語り、実践した記録であった。思いがけない出会いのような気がして読み返してみると、当時の主張と実践が、20年という時の経過を経て次世代のアーティスト・表現者・キュレーターたちに引き継がれ、伏流水のように「地域再生とアートの連携」という実態を伴って具現化しはじめているということが、私には大きな驚きであり、また、感動であった。
そこで、少し調べてみると、この記事は、ホームページ上の「ミュージアムデータ」からは消えているようだということがわかった。10年を経過して、新しい記事が上書きされ、消えたのだろう。そして記事そのものは、誰かのホームページに転載され、インターネット上を漂泊していたのだろう。それが、突然、旅先の私のインターネット画面上に立ち現れてきたというのも、不思議な符牒のような、
あるいは「神意」と呼ぶべき現象のようではないか。

    
上記の経緯を珍重し、下記に採録します。文は多少加筆してありますが、ほぼ原文のままです。
             
ミュージアムデータ」(丹青社発行)2000年6月号
ミュージアム・レポート
美術館と町づくり
由布院空想の森美術館館長
高見 乾司


●湯布院アートの始動/1970年代後半のこと

  静かな町だ。
  しんしんと、胸のどこかが痛むほど、静かな町だ。
窓から見える風景をみつめながら、私はそう思った。
1975年ごろのことである。療養のため、湯布院の町の病院に入院してきた私は、病棟の窓から、静かで淋しく、そして美しいこの町の景色を見ていた。それが私とこの町との由縁の開始であった。
足掛け三年ほどの療養生活を送ったあと、私はこの町の住人となった。
すると、外から眺めていたほどこの町は淋しくもなく、静かでもないことがすぐにわかった。
「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」を始めとする文化運動、すなわち、のちに「湯布院の町づくり」と呼ばれる運動が始まったばかりの時であり、この町に住む人たちは皆忙しく、まるで坩堝のなかの異質な物質同士のように、燃えたぎっていたのである。私はたちまちその運動の中に身を投じた。
 私がこの町で最初に行ったことは、古い空き家を一軒借りて、そこを住居とアトリエを兼ねた画廊にしたことであった。「由布画廊」と名づけたその小さな空間は、すぐに絵の具やキャンバスや種々のコレクションなどで埋まり、あたかも裏通りの骨董屋のような趣を呈したが、なぜか次々と人が集まって来て、一緒に絵を描いたり、酒を酌み交わし、夜が更けるまで語り合ったりした。そこには、私たちがもっとも尊敬し、影響を受けた画廊主にして美術評論家の故・洲之内徹氏や、当時は毎日新聞の美術記者だった田中幸人氏(前・埼玉県立美術館長)などが訪ねてきてくれたり、その時集まったメンバーが、のちに「湯布院アートプロジェクト」というグループへと発展し、「由布院駅アートホール」を核とした湯布院のアートシーンの担い手となったりするのだから、やはり、私の湯布院での第一歩として、この由布画廊時代のことは記録しておくべきだろう。「空き家」に入り込み、そこをアート空間に変えながら周辺の町並みづくり=地域デザインに波及させてゆくという一連の私の行動パターン(驚くべきことにそれは、いつのまにか現代美術の手法の一つとなった)も、この辺りにその原型があるといえるかもしれない。
 このころ、私はまだ湯布院という田舎町の中では「異人」あるいは「少し変わった言動をなす絵描き」程度にしか思われてはいなかっただろう。多少の曲折を経て、かつて湯の坪街道と呼ばれた旧街道沿いの一角に居着いた時から、私とこの町との縁は緊密なものとなった。古い町並みに住む人たちはやさしく私とその連れを受け入れてくれ、私は、漂泊の果てに故郷へと帰りついたような安堵感を抱いたものである。ここでも私とその連れとは、空き家となっていた理髪店の跡を借り受け、古い民具や古布、古伊万里の食器、民俗資料などを商う店「古民芸・糸車」を開店したのである。店に客は集まったが私は暇だったので、二階の部屋で絵を描いたり、時折、収集旅行に出かけたりした。そして夕刻ともなれば、近くの酒屋に周辺の商店主や地域づくりの仲間たちが集まり、缶ビールを片手に、地域論、店舗デザインなどを話し合ったのである。これが「湯の坪街道デザイン会議」である。ここで話し合われたことが店舗づくりに生かされ、それぞれの店が集客力を持ち始めた。
そして、町並みに木を植える運動、街路灯のデザインと設置などへとつながった。
街路灯には、若手のアーティスト岡山直之氏の石の彫刻や新進の竹のクラフトマン
として登場したばかりの高見八州洋(私の弟)の作品などが使われた。
アートが地域の環境計画に関係していくという実験は、ここでは実際に
町づくりの手法として生かされたのである。
 湯の坪街道はこうして「界隈」としての魅力とにぎわいを獲得していった。
その後のこの地区の発展ぶりは、現地を訪れてみれば一目瞭然であるので記述を省く。

●町はミュージアムである/アートの拠点が誕生し始めた

 いつの間にか10 年近い歳月が流れていた。私は「町づくり」の一員に加えてもらえたことが嬉しくて、さまざまな会合や地域づくり会議などに顔を出した。湯布院音楽祭が10 年目を迎えたころのことで、私も実行委員の一人として会場作りに走り回ったり、音楽家の世話をしたり、雑務の合間に楽屋裏に回り、演奏を聞いたりしていた。このころが、私にとっても、また湯布院の町にとっても、大きな転機であったといえよう。町には観光客があふれるようになり、大型の開発計画がなだれ込んできた。当然、町づくりのメンバーたちはそれに反対する運動を起した。もともと、湯布院の町づくり運動そのものが、「猪の瀬戸」と呼ばれる湿原の保存運動から出発した経緯もあって、この町の人たちは豊かな自然が壊されることに強い反発心を抱く傾向がつよかった。私もまた迷わずそのメンバーの一員となったが、この過程で、「空想の森美術館構想」が生まれたのである。それは、「反対」を唱えるだけでなく、私自身がこの町に受け入れてもらえたように、他の進出企業や個人にも、気持ちよくこの町に入り込めるようなプランの提案であったし、そのモデルケースの一つになればという、願いでもあった。そしてそれは、自分自身のこの町での居場所を探す作業でもあった。この骨董屋の二階で描かれた空想男の絵空事のような構想は、突然現れたコレクター氏の支援などによって、あっという間に実現に向かった。それは、同時期に行われた町の商工会主催による町民アンケートに記された「美術館や図書館、音楽堂などが点在し、ペンションなどの瀟洒な宿泊施設が自然と共存する静かな町」という町民の願望と一致するものだという確信に基づくものでもあった。こうして、私は開発のために切り払われ、売りに出されたていた由布山麓の土地を購入し、小さな美術館が集合する「由布院空想の森美術館ゾーン」の主宰者となったのである。この時期、彫刻家夫妻の経営する「末田美術館」、ガラス工房、紙漉きの工房などをもつ小さなテーマパーク施設「湯布院民芸村」の二施設がすでに開設されており、それぞれ客を集め始めていたことは特記しておかねばならない。前述したように、私どもの空想の森美術館は
私設でありながら、湯布院の町づくりの運動の中から生まれてきたような美術館であると
私は認識しているのだが、末田美術館と民芸村(いずれも私設)が湯布院の美術館・
博物館等施設の先べんをつけた事業であるという認識も欠かせない。


●伊豆高原の風/湯布院アートは他の地域へ飛び火し始めた

 1992年、第五回(最終回)の「アートフェスティバルゆふいん」に参加して下さった画家の谷川晃一氏は、「この手法は面白い」と、翌年、「伊豆高原アートフェスティバル」を企画した。
 「雑木林の中を散策することもアート鑑賞のプログラム」「アートによる癒し」という二つのテーマを掲げたこの美術展は、伊豆半島の広々とした雑木林の中に点在する画家のアトリエや小ぶりのギャラリー、お洒落な美術館、ペンションの一室などを会場として開催されたため、たちまち多くの観客を集めた。地図を片手に、高原をわたる五月の風の中を散策する人々の姿が方々にみられ、これまで、日本の「美術鑑賞」にはなかったアートの楽しみ方がここで実現されたのである。
二年目以降は、出品作家も参加会場も増え続けて、第五回目を迎えるころには、
参加会場80、作家は100人をこえるという、国内最大級の地域美術展に発展したのである。
 この伊豆高原アートフェスティバルは、日本のアートシーンの方向を都市から地方へ変えた、といっても過言ではない。一方、バブル経済崩壊後の都市のアートビジネスの乱入という現象を生んだことも事実である。当初、伊豆高原に計画されていたゴルフ場計画や大型開発に対する反語としての意味も合せ持っていたこの美術展が、ある時期、その役割を果たしたと同時に、このような現象を招いたということは、同様の経過をもつ湯布院にとっても、また主宰者たちにとっても残念なことであった。しかしながら、谷川氏をはじめ、この美術展の実行委員会のスタッフは、ビジネス優先の有料施設を排除したり、行政からの助成金を断ったり、大胆な内部改革をしたりしながら模索と実験をくり返している。そのことにより、つねに他の地域の企画に大きな影響を与え続けているのである。


●「風の盆」の町の新しい風/坂のまち美術館

 ライトバンに満載した荷を積んで、高速道を北に向かった日が、遠い日のことのようだ。車中の荷とは、池田満寿夫や靉嘔、大沢昌助氏などの版画、湯布院町で開催した「メールアート展」の出品作、それに私自身の墨とインクによる風景画などであった。それは、以前経験した骨董の行商のようであったし、祭りの場へと向かう香具師の荷造りにも似ていた。
池田、靉嘔、大沢などの作品は、「わたくし美術館」主宰者の尾崎正教氏のコレクションによるものである。「わたくし美術館」とは、「五点以上すぐれたコレクションを有し、それが公開されていればそれは『わたくし』の美術館である」という主張で、この時期私と尾崎氏とは、湯布院を始め、各地で尾崎コレクションによる展覧会を企画していた。湯布院から伊豆へ、そして伊豆から八尾へと回る旅は、
その一連の行動の延長線上にあった。
 八尾では、湯布院との縁を取り持って下さった「タウン情報とやま」の編集長・山下隆司氏、ギャラリー「野風堂」のオーナーであり彫刻家でもある宇津孝志氏、和紙工房と資料館「和紙文庫」を主宰する吉田桂介翁などが出迎えて下さった。八尾の町には「おわら風の盆」と呼ばれる美しい踊りが伝わっていて、毎年、祭りの開催される九月の三日間だけで20万人もの観光客が訪れるというのだが、普段は静かな町であった。鋸の目立屋や、欄間の職人などが今なお店を構え、重厚な造り酒屋や江戸情緒を残す旅館などが軒を並べる古い町屋を利用して、「わたくしの町美術館」展を開催しようという私たちの呼びかけはこうして実現し、数年後「町屋が美術館」という構想に発展、さらに1999 年秋、尾崎正教氏と宇津孝志氏、大沢昌介の版画作品との出会いによる「坂のまち美術館」の開館へと
継続されていった。私は、年に一度開催されるようになった「坂の町アート」に出品を続け、
その着実に発展してゆく経過を聞きながら、嬉しく思っていたのだが、
この「坂のまち美術館」の開館までは予想してはいなかった。


●島原の風/災害復興とアート

 六階建てのビルはなかば廃虚化していた。雲仙・普賢岳の噴火災害の影響により、この「島原グランドホテル」は、立ち入り禁止区域内にあったため、その間、営業ができず、倒産に近い状態に追い込まれていた。客室には分厚く灰が積もり、冷蔵庫の中には、4年前のままのジュースや缶ビールなどが入っており、押し入れには、シーツや布団がきれいに畳まれたまま入っていた。
 島原グランドホテルの復興を支援する美術展「島原アートプロジェクト’95」は廃虚化したこのホテルを会場に開催され、延べ80人の作家が参加した。社長の金崎福男氏が、湯布院の手法を学び、ホテルの再興に役立てたい、と湯布院を訪れた時から、私たちの交流は始まっていた。1995年夏。それは私が体験したアートシーンの中で、もっとも刺激的で熱い「40日間の美術展」という時間であった。ある作家は削岩機を持ち込み、壁に穴を穿ち、それを「作品」と称したし、水無川から土石流で流された家の断片、流木、溶岩や砂などを拾ってきてペインティングしたり、並べたりした作家もいた。島原半島を漂泊し、描いた絵を展示した画家もいた。客室に残されたシーツや布類を使って、大きな織物を作った染織家もいた。私もまた、その熱い群れの中に身を投じ、一人の制作者として行動した。
 私は、集まって来た近所の子どもたちと一緒に巨大壁画に挑戦したり、膨大な量の襖や障子を利用し、墨やペンキを用いて絵を描いたりした。そこはありとあらゆるアートの実験場となり、文字どおり、生きた現代美術館となったのである。この作家たちの「行為」「パフォーマンス」「表現」「展示」などは、金崎氏を始め、噴火災害に苦しむ島原半島の人々に少なからず影響を与えたが、島原グランドホテルは、銀行の支援が得られず、倒産・競売という悲しい結果となった。のちに日本列島を震撼させる「貸し渋り」のはしりともいえる、銀行の冷たい対応であり、土木工事や農地の復興など、
ハードな復興には巨額の予算が投じられたが個人の復興を支援する措置は、
国家・民間ともに無に等しかったという現状が浮き彫りにされた結末であった。

「島原アートプロジェクト’95」では、私は二つの悔いを残した。一つは、会期が終了しても、そのままアートがホテルのビルを占拠し、現代美術館として機能させれば、そこは集客力を持つ施設となり、ホテルの復興を果たし得たのではないか、という思いである。が、これは契約違反であるといわれればそれまでの個人的思惑にすぎない。もう一つは、施設が競売にかけられ、ビルが取り壊される前に、作家たちから金崎氏に寄贈され、ビルの中にあるいは壁や窓など(建物そのもの) に描かれたりして残されていた作品を救出し得なかったということである。関係者に連絡し、搬出を依頼した時には、すでに施設の大半は重機によって破壊されていたのである。しかしながら、この一夏、廃虚のビルに集まった作家たちの縁は、島原市内「森岳商店街」の「まちなみ美術館計画」に引継がれるという思わぬ展開をみせた。森岳という島原城下の商店街の若い店主たちが、作家たちを招待してくれたのは、
「島原アートプロジェクト’95」終了翌年の1996年のことであった。
 この日、作家たちの宿となったのは、古い商店街の中の一軒の空き家だった。すでに島原を離れていた金崎氏も駆けつけて、一年ぶりの再開を喜び合い、フォーラムという名の酒盛りは、夜更けまで続けられたのである。翌朝、アーティストたちは、主催者から渡された使い捨てカメラを一台ずつ持ち、商店街を歩いた。なかばうつろな二日酔の目でも、彼らは、町のそこここにある魅力的な「けしき」に向かってシャッターを切った。そして午後3時、事務局も兼ねていた「わかば写真館」にそれを持ち込んだ。するとわかば写真館の若主人・松阪昌應氏がそれをすかさずプリントし、パネルに仕立てて、町並みのはずれにある「宮崎酒店」の酒蔵に運び、展示した。一日にして「まちなみ展覧会」が実現し、作家たちがそれぞれ森岳の魅力について、あるいは自作について、発言したのである。
 それが「島原アートフォーラム’96」の始まりであった。古い町並みそのものが資源であるという美術家たちの共通した認識は少なからず参加者に影響を与えた。この日から間を置かず、古い金物店「猪原商店」が改装し、ギャラリーを併設して美術館のような金物店へと変身したし、作家たちの宿泊所となった空き家も和楽器のギャラリーとなった。島原城下の森岳商店街は、
こうして再生への一歩を踏み出したのである。

それから二年後の1998 年のことである。同じく島原半島にある小動物公園「雲仙リス村」の社長・安倉多江子氏(当時は末吉氏)が訪ねて来られた。リス村もまた普賢岳の噴火災害の影響に苦しみ続けた施設で、リスや鹿などを中心とした小動物たちは噴火におびえ、異常出産が続いたり、園内には灰が厚く積もって植物が枯れたりして、客は減少し、経営危機の状態にあるというのだった。加えて、復興予算目当ての土木事業に手を出すなどした彼女の夫でもあった先代社長末吉耕造氏は、心身喪失状態で島原を離れざるを得ない状態となり、やむなく自分が社長を継いだのだが、この先、営業を続けてゆけるかどうか自信がもてないのだという。末吉夫妻は、前記「島原グランドホテル」での企画、「森岳まちなみ美術館計画」などを後方から支援して下さった縁があった。私はそこで、『「リス村」という一万坪の森は島原半島の友人たちにとっても、動物たちにとっても、そこを愛している来場者にとっても大切な場所である。その森を「風の森ミュージアム」と名づけたらどうだろう。子どもたちが集まり、作品を作ったり、施設そのものにペインティングしたりする。そしてそれらの作品が森の中に点在し始める。それが「風の森ミュージアム」の出発の日である』というような内容の提案をした。
 すると、彼女の目はたちまちきらきらと輝き始め、「それなら私にもできそう。私はもともと画家志望の女の子だったの」と美しい笑顔を見せたのである。それからの安倉氏の活動は目を見張るものがある。激しい雨がテントを濡らし、風に揺れる中で、子どもたちが嬉々として走り回った第一回のペインティングパフォーマンス。使い古しの傘にペインティングし、森に展示した「アートアンブレラ大作戦」。湯布院のさとうかつじ氏の指導による「ダンボールアート展」。森に鉄の人体彫刻を点在させた「森の人展」。次々に展開された企画は話題を集め、島原の保育園、幼稚園、小学校などの協賛も得られて、まさしく風の森は生きた野外ミュージアムとなった。私も九州各地から駆けつけたアーティストとともに島原へと向かい、風の森のアートシーンの演出を手伝った。このことによって、「島原グランドホテル」での苦い体験は生かされ、森岳の友人たちの交流とともに、私にとっての島原半島は、
一層、思い入れ深い土地となったのである。

●南風の国にて/隼人町・エコミュージアム構想と南風のアート

 錦紅湾の最奥部に位置する隼人町は、黒潮が薩摩半島と大隈半島の間を流れ込み、桜島をかすめて、最後に到達する地点だという。この流れに乗って、ニニギノミコトが漂着・上陸したと伝えられる地点もある。古来、この土地の人々は新しい文物をもたらす南風のことを(はや)と呼び、黒潮に乗って到来した人のことを南風人(ハヤヒト=ハヤト)と呼んだ。ニニギノミコト上陸地といわれる海岸には、霧島山系を源流とする天降川(あもりがわ)が流れ込んでいる。天降川の流域には、蛭子伝説にちなむ神社、山幸彦を祀る陵墓、天孫降臨の地と伝えられる高千穂河原などがある。天降川の対岸の丘陵地からは、縄文時代草創期(9500 年前)の定住生活の初まりを示す「上の原遺跡」も発見された。天降川河口に立つと、この地が、古代から現代に至るまで、新しい文化を生み、渡来した文化と混交しながら、日本列島へと向けて発信し続けてきた土地なのだということを実感する。
 このような歴史認識にたち、21世紀へ向けた新しい生活創造空間の提案をめざして開館したのが「木と生活文化ミュージアム・南風人館(はやとかん)」である(1997)。製材業と住宅機器販売を主とする地元企業「(株)野元」が設立したこのミュージアムは、地域づくりグループ「南風(はや)の会」の支持を得、九州のクラフトマンや美術家、創作家たちの支援も得られて、たちまち、南九州の文化活動の拠点となった。そして1998 年、公募展「木と生活文化賞’98」を主催、全国から300点を上回る作品を集めた。翌年の「木と生活文化展’99」では、「エコミュージアム構想」を町づくりの基本理念に据えた隼人町の協賛も得られて、実行委員会体制が確立した。企業が提案した構想を地域住民が支援し行政が協賛するという地域文化の理想型がここで実現したのである。北は北海道から南は沖縄まで、338人の作家から寄せられた483点の応募作品を審査する審査会場は、このような経緯を経て、熱気に包まれた。審査員は10人。美術館長、建築家、工芸家、デザイナーなど、各ジャンルのスペシャリストたちが、審査基準や手法を話し合うことから始め、一点一点、慎重に議論しながら入選作品を選出した。
 会場には、実行委員やボランティアスタッフ、出品作家、見学の市民などが多数集まっていて、審査の過程で、質問を発したり、作家または作品に対する情報を提供したり、論議に加わったりした。そのため、審査そのものが現代美術の公開講座のような趣を呈したのである。「木と生活文化」を標榜した展覧会の大賞受賞作品が、鉄による現代彫刻だったということが、この展覧会の実験精神を物語っていよう。こうして選ばれた入選作253点は、隼人町内の三つの会場に分けて展示された。
多くの見学者が期間中、この町を訪れたことはいうまでもない。
 2000 年5 月、第三回目を迎えた「木と生活文化展」は、タイトルを「南風の生活文化展2000」と変えて、新たに出発した。これまで、この企画を支え、実行してきた実行委員・審査員に加え、多数の隼人町民、行政スタッフ、町会議員二人などを加えて、一層の厚みを増して再スタートを切ったのである。南の風は勢いを増しつつ、どこかへと向かい始めたようである。

 

●アートが新しい地域文化を拓き始めた/ 九州における地域アートの展開

 宮崎県木城町「友愛社」は日本の福祉の父とも呼ばれる石井十次が設立した福祉施設である。孤児救済施設「友愛園」を中核とし、広大な敷地に、二つの保育園、茶畑、水田、友愛社の設立による老人福祉施設(現在は医療法人)、小学校(現在は西都市立)、開拓資料館などが点在する。すでに百年の歴史をもつ友愛社の、古くなった建物や、森の一角などを若手アーティストが利用し、福祉とアートの出会いによる「癒しの空間づくり」も始まっている。彫刻家、設計士、ログハウス造りの職人、現代美術の作家などが滞在したり居住したりしながら、それぞれ、作品を制作したり、発表したりしているのだ。敷地内にある「のゆり保育園」の隣には、保育園児の描いた絵を展示した小さな「のゆり美術館」があり、その横には「かさこそ森」と呼ばれる森がある。「かさこそ森」と「のゆり保育園」の間には「こそかさ広場」がある。このこそかさ広場とかさこそ森とで、初夏の一日、子どもたちや友愛園の園生などが集まり、アートパフォーマンスを行なう。ダンボールや布、廃材などを集めてきて、それにペインティングし、かさこそ森に展示するのだ。その様子を、森のカラスが、大きな杉の木の上から、見守っている。子どもたちの作品を、上級生や大人たちが森に展示し終わった時が、「かさこそ森美術館」の誕生の瞬間である。森に歓声が響く。西都原古墳群に隣接し、古墳や遺跡が散在するこの台地にじっくりと腰を据えて、アーティストや子どもたちと会話し、行動する園長・児島草次郎氏のもとへは、
ますます多彩な人材が集まり、交友を深めてゆくことだろう。
 宮崎市には、市街地の中心部に「現代っ子ミュージアム」が誕生した(1999)。同市在住の美術家・藤野忠利氏が、かつて在籍した前衛美術集団「具体」の仲間の作品に加えて、長年携わってきた子どもたちの絵画教室と「遊びの採集」と題したワークショップから生まれた作品を展示し、美術教育を行なう場として開設したのである。都市の真ん中に出現した建物はまるで建物そのものがオブジェのようにそこに存在し、道行く人の足を止めさせている。観光が衰退し、巨大リゾート施設が低迷する中、このミュージアムは、退廃する都市に突然現れた冒険者のように、人を引き付けるのだ。
 熊本県阿蘇郡長陽村は、南阿蘇の外輪山に囲まれた静かな村である。文字どおり、阿蘇の山脈から昇った朝日が、熊本市街の向こう、有明海の彼方に沈むまで、明るい陽光が一日中降り注ぐ村なのである。「陽の長い一日の村美術館」とは、この長陽村一帯を「地域ミュージアム」と見立てた美術展である。阿蘇地域在住作家(あきよしあやこ氏の鉄の作品) に約20人の招待作家を加えて、村内約40ヵ所の会場で、さまざまな企画展やイベントが開催されるのである。ここでは、村の起源を語る神楽の秋季大祭もプログラムに組み込まれ、地元陶芸家や木工作家の工房が開放されたり、古い温泉旅館が前衛華道の発表の場となったり、ローカル線の駅や神社の拝殿が絵画展の会場になったりして、好評だった。広々とした村の景色を楽しみながら、観客は、作家や会場のオーナーなどと親しく会話をし、交流を深めたのである。この手法は、湯布院で行われた初期の「アートフェスティバルゆふいん」や「伊豆高原アートフェスティバル」などの実験を下敷きにしたものだが、その失敗例や課題を整理し、豊かな自然に抱かれた南阿蘇というフィールドの魅力を最大限に生かしたことが成功した。今後は、南阿蘇の大地に流れる風のように、ゆったりと、おおらかに続けられて欲しい企画である。

 

大分県庄内町阿蘇野地区は、九重山系・黒岳の山麓に、古代の伝説を秘める集落が点在する静かな村である。村の中央部には縄文時代の遺跡が眠り、阿蘇野川沿いには景行天皇伝説を伝える神社や修験の山、安倍宗任伝説にちなむ集落などがある。この阿蘇野の農地の跡に現代美術の作家たちが集まり、論議を続けているのが「黒岳山麓美術会議」である。約三年にわたる論議の中から、小屋すなわち、居住が初まる前の建築物、または神が降臨する場、あるいは展示空間などの機能をもつ小さな建造物を参加作家が手作りで創ってゆく「小屋プロジェクト」、実際に作家が滞在して小屋を創った「泊ジロー展」、現地の植生を調査し、その結果を草葺きの小屋に展示した「草美術展」などが生まれた。いずれも、巨大な施設に頼らず、雄大な自然そのものをミュージアムと見立て、作家の創作活動によってその空き地や地域一帯がミュージアム化してゆくという把握である。この構想を推進するのは、林業家であり、現代美術家でもある岡山直之氏と木村秀和氏の二人である。彼らは、「農」や「林業」さらに「生活そのもの」が「アート=表現」であると主張する。が、彼らに、従来の美術家のような既成の価値観を破壊するとか、体制を批判するとか、戦う、といった過激さはない。彼らは穏やかにそこにある自然やその土地で生活する人々、企画に参加する作家などと対話しながら、全体構想を大きな時間の流れに委ねるのである。

● 2000 年・湯布院のアートシーン

 華やかなにぎわいをみせる湯布院の町の中心部から外れた山あいに湯平温泉街がある。花合野(かごの)川に沿った古い温泉町はかつて栄えた時代もあったが、今はひっそりとしたたたずまいが往時を物語るだけである。この温泉街に、昭和初期ごろ訪れた自由律の俳人・種田山頭火は、旅の衣を川で洗い、川辺の石に干して、その夜の宿である木賃宿で本を読んでいた。折りから、激しい時雨が来た。急いで川岸に向かった山頭火だが、すでにその時には、宿の娘さんが洗濯物を取り込み、きれいに畳んでくれていた。その心づかいに感激した山頭火は、
 しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ
という秀句を残す。
 この故事にちなんで初められたのが「湯布院と山頭火展」である。瀬音の聞こえる温泉街に招待作家が滞在し、山頭火をイメージした作品を制作し、展示する。この企画は湯平の実行委員会に支えられて、すでに七回を数えた。その間、六畳一間の山頭火ミュージアム「時雨館」も誕生した。古い倉庫を、地元の実行委員が改装し、作家たちの寄贈による作品や山頭火にちなむ作品などを展示したのである。時雨館はもっとも素朴なミュージアム誕生のかたちであり、私のお気に入りの場である。時雨館に座り、花合野川の瀬音を聞いていると、無性に絵を描いたり、一句ひねりたくなったりして、つい目の前に置かれている机の上の筆に手を伸ばすのである。「湯布院と山頭火展」は初期の「アートフェスティバルゆふいん」を引き継いだ企画であることも特筆しておこう。観光化の波に呑まれ、消滅したアートフェスティバル方式の美術展がこのようなかたちで命脈を保ったのだということもできる。

「由布院駅アートホール」の運営が、今年(2000年)で10周年を迎えた。博多発由布院行き・アートギャラリー付き特急列車「ゆふいんの森号」で、列車シンポジウム「アートは時空轢断の夢を運ぶか」を開催、湯布院アートの未来図を論議しながら向かった日から、さまざまな実験を重ねながら、湯布院の仲間とそれを支援する作家・美術愛好家たちは、「アートの町・湯布院」という実態を構築してきたのだ。毎月、開催される企画展と作家を囲むフォーラムなどを、町内のボランティアスタッフで企画・運営する「由布院駅アートホール」が、点在する美術館やギャラリーなどのアートスペースの結節点としての役割を果たした。企画は、スタッフが提案したものと全国の作家・企画者から申し込みを受けつけたものとを年一回の企画会議によって決定し、展示する。その結果、若手作家の発表の場、あるいは現代美術の実験場といった性格が描き出され、企画・運営にかかわる若手スタッフも次第に力を蓄えた。駅の設計者である磯崎新氏、シンポジウムに参加していただいた美術評論家・針生一郎氏、画家・菊畑茂久馬氏、さらにジャーナリストの深野治氏、現代美術家の風倉匠氏なども後方からさりげなく支援して下さった。美術ファンのみならず多数の乗降客や町民、旅人などが集まる「駅」という空間が、こうして「待合室という公共性」を保ちながらも、「公開されたミュージアム」としての機能を獲得したのである。
 「映画館ひとつない町・しかしそこに映画はある」というキャッチフレーズで出発した「湯布院映画祭」。公民館やレストランやホテルなど、町内の施設を利用して開催される「ゆふいん音楽祭」。これらの文化イベントが湯布院の町づくり運動の核であった。公共施設としての「駅」を舞台に展開されたアート活動もまた、一定の役割を果たした。由布院駅の運営を軸に、それを支援する美術館・ギャラリーのネットワーク「ゆふいんアートネット」も生まれた。「ゆふいんアートネット」に所属する施設は、湯布院の町づくりに協賛する活動を行ないながら、それぞれ独自の企画も展開し、湯布院という町を九州の創作家たちの発表の拠点と化す役割も果たしている。さらに、湯布院にゆかりのある作家の作品を所蔵し、それを町の共有資産として登録する「ゆふいんアートストック」も創設され、すでにすぐれた作品の収蔵を開始した。町内の老人福祉施設に入所し、絵を描き続けていた東勝吉翁(90才)の発掘、明治・大正・昭和と生きた地元の画家・日野篤三郎氏の仕事の顕彰、湯平出身の画家・金子善明氏の作品の買い上げ、それらの作品による「湯布院アートストック展」の開催など、すでに活発な仕事が展開されている。これらの活動は多くの収獲を生み、作家との連携も強まったが、反面、アートマーケットとして開拓された町に種々のアートビジネスが乱入してくるという「観光地化現象」も生じた。このような状況をとらえ、風倉匠氏は、混沌とした坩堝のような状態が現在の湯布院の魅力である、そこから何が生まれてくるかはまだ誰にも予測がつかない、と発言したことがある。伊豆高原や軽井沢、清里など、日本のすぐれた観光地が、たちまち観光マネーによる無法地帯と化してゆくなかで、湯布院こそ、時代を先導する事例を生み出してゆくべきである、そのためにこそ、アートが批判力と創造力を持ち続け、湯布院の文化活動が生き生きと活動しなければならないのだ、というのである。
 このような見方は、日本社会の現況と対照することができる。すなわち、明治以来、西欧の文化・経済政策、政治システムを導入することに全精力を注いできた日本という国家の体質は、高度経済成長の矛盾とバブル経済の破綻という洗礼を受け、大きく見直しを迫られ、開発から協調へ、都市から地方へ、経済的豊かさから精神的豊かさへという価値観の転換を余儀なくされたのである。それはアート・文化の領域においても同様である。大型美術館や大都市の画廊・美術団体への出品・依存を目標としてきた画家や創作家・表現者たちが、都市を離れ、地方にその拠点を移し、その土地の性格や風土性、環境の問題、そこに暮らす人々などと対話し、深く関わりながら制作と発表活動をしようとする。それが、彼らの選択する「生き方」であり、アートであり、文化なのである。

 今年度(2000年度)、この由布院駅アートホールの10周年を記念して、過去10年間に同ホールで個展を開催した作家の中から、40人を選出し、町じゅうに点在する美術館やギャラリーなどのアート施設やフィールドを使って、作品展を開こうという企画が提案され、準備を急いでいる。画家・写真家・工芸家・現代美術作家など、多彩な顔ぶれが、湯布院の町をアートでコーディネートすることにより、町が「エコミュージアム空間」と化す。それは、十数年前に提案された「アートフェスティバルゆふいん」の基本理念が、地下水脈のように生き続け、時を得て伏流水のように湧出してきたものだとみることができる。湯布院アートは、さまざまな実験や失敗を重ねながらも、着実に進化を続けているということもできる。
 1970年後半の湯布院を出発点とし、列島を旅するように各地のアートや地域美術展などを見てきた私の15年余りの時間は、そのダイナミックな変化の瞬間を目撃し、記録する旅だったように思える。2000年・湯布院のアートシーンは、さまざまな内容を包含しながら、同時代の表現者たちとともに、燃え、混ざり合い、反発し、戦い、思索し、対話を繰り返し、また新しい価値を生成しようするフィールドである。この「現場」に立っていること事体が、私にとって、新鮮な感動と驚きと喜びの連続なのである。


●尾崎正教と「わたくし美術館」

 たとえ三点でも五点でもすぐれた作品を収集していて、それが公開されていれば、それは「私」のための「わたくし美術館」である、という主張は、
尾崎正教氏とそのグループによって提示された。
1960年代後半のことである。
 当初、瑛九、池田満寿夫などの版画作品を頒布する「小コレクターの会」という絵画愛好グループがあって、コレクターとして知られた久保貞次郎氏や尾崎氏などが、瑛九や池田などの版画を仲間うちに販売し、無名の画家を支援する、というところからこの運動は出発した。まだこれらの画家が世に知られる前で、池田の版画がなんと
一枚1500円という価格で販売されていた時代のことだ。
 尾崎氏は、小学校の教員をしていたのだが、当時の美術の状況そのものに対する疑問と、これらの画家たちとの交流の中から、良い美術教育とは良い絵を普及することにある、という信念を抱くに至り、その後、教職を辞し、版画を担いだ行商の旅(本人の言による)に出るのである。このころ、尾崎氏や美術評論家・針生一郎氏などの会話の中から、美術の「わたくし性」、個人コレクションの公開と私設美術館の呼称の問題などを包括した
「わたくし」という概念が提起されたのである。
「わたくし」という視点から個人のコレクションをとらえるということ、
公立美術館に対してわたくし性のつよい美術館を
「わたくし美術館」という概念でとらえるという視点、それらは、
これまでに提示されたことのない、まったく新しい美術の概念であった。
「わたくし美術館」の運動には、多くの画家が賛同し、尾崎氏に作品を提供するという関係が確立された。瑛九、北川民次、オノサトトシノブ、池田満寿夫、靉嘔、元永定正、草間弥生、谷川晃一などが名を連ねた。尾崎氏は、これらの作家の版画制作にかかわり、大量に仕上がった作品を仕入れて、愛好家に販売する旅に出かけるのである。良い作品を安価に供給できること、これがわたくし美術館の基本理念のひとつである。そのことによって、生きた美術教育を実現したいという尾崎氏の熱意に、
多くの画家たちが共感したのである。こうして、「わたくし美術館」の運動は始まった。

「わたくし美術館運動」のもうひとつの注目すべき特徴は、1980年から始まった、『わたくし美術館』という分厚い書籍の出版活動である。そこには、知名度の高い個人美術館から地方の特色ある民俗博物館、倉庫を改造した倉庫美術館、個人の居間を公開したスペースや喫茶店の壁面、廃校を利用した版画美術館など、多種・多彩な「わたくし」の美術館が網羅され、それぞれが個性あふれる自己主張を展開しているのである。この書物の刊行は四刊に及び、掲載された美術館は300館を超える。いずれも、尾崎氏が足を運び、館主やスタッフと
会話を交わし、時には版画のオークションなども開催したりして、
綿密な取材を重ねたものである。
ここでは、それぞれの館主の美術館や美術そのものに賭けた人生が、堂々と語られており、
感動的である。そして、「美術館とはこんなにすばらしいものなのだ」
という実感をわれわれに与えてくれるのである。
 一方で、この程度のものまで美術あるいは美術館というジャンルに組み込むことはケシカランとか、美術を低俗なものまで引き下げたアートの垂れ流しにつながる、などという批判も避けがたいものであった。だが、それらの論は、『わたくし美術館・第1巻』の巻頭に載せられた、尾崎氏の、「たとえ一坪でも、そこに心からなる展示空間と、心からなる作品が暖かい邂逅を得たとき、真の美術館、
つまり『わたくし美術館』がはじまるのだ…」という言葉に一蹴されるであろう。
 「わたくし美術館」の理念は、西洋の絵画を輸入し、巨大な施設をつくってそれらの作品を収蔵・展示し、それこそが「立派な美術館である」とし、権威化されていった日本の公立美術館や戦後の美術教育に対する反語であり、美術館とはもっと自由で、おおらかで、
視線の低いところからはじめられていいのだ、という主張であった。

●湯布院アートと「わたくし美術館

 大量の版画を入れた荷物を持って、尾崎正教氏が「由布院空想の森美術館」へ続く坂道を
登って来たのは、1988年初秋の、晴れた日のことであった。
 そのころ、空想の森美術館は開館2年目を迎えたばかりで、その年に空想の森美術館のスタッフが中心となって提案した「アートフェスティバルゆふいん」を終えて、
ほっと一息ついているところだった。
 「アートフェスティバルゆふいん」とは、湯布院の町に点在する私設美術館やギャラリー、ペンションや喫茶店の一角などを結んで行われる「地域美術展」の提案であり「町=地域そのものが美術館である」という主張であった。尾崎氏は、『わたくし美術館・第2巻』の取材のため九州を訪れ、その日は湯布院を通過する予定だったのだが、たまたま停車した交差点の信号の横にあった「空想の森美術館」の看板が目につき、訪ねてみる気になったのだということであった。この時点で発行されていた『わたくし美術館・第1巻』には、すでに開館していた湯布院町内の「末田美術館」が掲載されていたので、尾崎氏の情報収集の速さと、
湯布院に対する知識は並のものではなかったことがわかる。
のちに30館を超えるといわれるようになる湯布院の美術館群のなかで、この時期、開館していたのはこの
末田美術館と私どもの空想の森美術館の二館だけだったのだが、
尾崎氏のリストにはまだ空想の森美術館は入ってはいなかったのだった。
 この日、私たちはたちまち意気投合し、多くのことを話し合った。その後、尾崎氏と湯布院の美術運動は密接に関係していくこととなる。第2回以降の「アートフェスティバルゆふいん」(1989年~)では、尾崎氏のコレクションを借り受けるというかたちで
主要な企画が組み立てられ、「わたくし美術館」という考え方が徐々に浸透していった。
もちろん、この初期の段階から、
湯布院の町に混入してきたさまざまなアートの混在現象による
質の低下を危惧する声はあったが、
地域全体で美術展を行う、という実験そのものが私たちを行動へと駆り立てたのである。
この時期、尾崎氏の主張と湯布院の美術運動とはぴたりと一致し、
さらなる運動を生み出していく。

 1990年、JR九州が社をあげて開発した特急列車は「ゆふいんの森号」というリゾート特急で、「博多発湯布院行き」というイメージで設計された洒落たデザインの列車であった。そして、その中の一輌には、アートギャラリーが併設され、月々の企画展で旅客の目を楽しませる、という趣向である。これには湯布院の文化運動、ことにアートの運動との連携が不可欠の条件であるというJR九州の意向を受け、湯布院町内の美術愛好家や施設の代表者からなる「ゆふいんアートプロジェクト(のちに由布院駅アートホール企画運営会議に発展)」が結成され、運営にあたることとなる。列車によって運ばれる美術展と湯布院の施設が連係する、というとらえかたであった。オープニングを、尾崎氏をはじめ、美術評論家の針生一郎氏、画家の菊畑茂久馬氏、ジャーナリストの深野治氏など多彩なゲストを迎えた列車内でのシンポジウム「アートは時空轢断の夢を運ぶか」で飾って、湯布院はもとより、福岡市、久留米市、吉井町、日田市など、沿線の各都市に関連の企画展を配置した「わたくしの町美術館展」を同時開催して、成功を収めた。点在するアートの拠点が、
同時にネットワークされた美術展で結ばれれば、
「町=地域」そのものが美術館になる、という実験であった。
 翌年(1991年)、建築家・磯崎新氏を町のデザイン論争にまで巻き込んだ議論(後述)の末、由布院駅舎が完成した。この駅舎に付属するホール(待合室を兼ねる)はアートギャラリーとして利用するという方向が確認され、オープニングを「磯崎新展」で飾った。
この時点で湯布院アートは、
「町じゅうでアートする」という実態を確立したのである。
 「アートフェスティバルゆふいん」(1988―1992年)と「わたくしの町美術館展」(1989―1992年)は並行して開催され、それぞれ、厳しい批判と大きな収穫を合わせ持ちながら終了した。その間、大型リゾート開発問題に抗議した「メールアート展・地球市民発湯布院行」(1992年)を開催。続けて漂泊の俳人・種田山頭火をテーマとした「湯布院と山頭火展」(1993年―継続中)、「湯布院アートナウ’94」などへと引き継がれてゆく。いずれも「町=地域」を単位とした美術展であり、この手法は湯布院の町に定着し、新たな地域文化を生み出す活力源となったのである。だが、そのことが、初期の段階で危惧されたような、アートの質の低下とアートビジネスの乱入という現象、
さらにつねに運動の中心となり発信源でありつづけた「由布院空想の森美術館」
の閉館などへとつながっていくとは、この時点ではまだだれも予測できなかった。
それほど、この時期の湯布院の美術運動は溌剌として、躍動感に満ちたものであった。

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